ある町に起こった出来事。

amigos's heart
amigos's heart

 

 

小池アミイゴさんより。

Take a deep breth.

Imagine all of the suffering people in japan.

OK’ let’s help each other.

Peace!

20110311
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いわゆる「東日本大震災」は「東日本に大きな被害をもたらした」のではないということ。

南相馬市で、方や南三陸町で。内田さんの家を消し、家族をうばったということ。恵美ちゃんの職場を破壊したということ。

15,373人が死んだのではなくて、1人の人生、15,373人分が亡くなったということ。東日本地域にあるいくつもの街に、悲劇を起こしたということ。

ぐちゃぐちゃ、どろどろ、へにょへにょになった建物。車。跡、跡、そこに街が、人の暮しがあったということが、わからないくらいでした。避難所で暮らす人々のごく「普通の生活」があったことも、わからなかった。
でもそれも、「嵐の去った跡」に過ぎないことを知りました。

宮城県南三陸町へは、5/28土曜の夜から山手地域のフィリピンコミュ二テイのママ、お姉さん、お兄さんたちにくっついて行きました。
たった一食だけど夕ご飯を作れる機会ということで。それも、大好きなフィリピン料理「アドボ」をフィリピン出身の方々と!彼女達の自主的な企画ということも、わたしにとって素敵すぎる催しだったので参加を決意しました。
小さいマイクロバスは補助席までいっぱい、現地で炊き出しするための「アドボ」の材料といっしょにぎゅうぎゅう詰め。狭い暑い臭いの言いたい放題、携帯音楽プレーヤーから、イヤホンじゃなくって普通に音楽を各自流してる。深夜2時頃に手作りケーキがまわってきて起こされる、このカオスな感じは久しぶり。日本なのに、日本人が圧倒的にマイノリテイという環境が、新鮮な旅。

横浜を23時に出て、南三陸町についたのは29日も朝の8時ころ。炊き出しをさせてもらった、志津川高校の傍にある、志津川中学でひらかれていた「復興祭」ならぬ「福興祭」を見学しました。復興を祈念しての地元主催のお祭りで、ほとんどは県外からの出展者さんたちでした。随分宮城県内からの出展も増えたようだけど、まだまだすくなかったな。でも、海鮮うどんをよそってくれたおばちゃんが「わたしたちは家も壊れてないのだから、いつまでも暗い顔なんてしてられないからねっ」と。
パワーのこもった一杯を盛ってくれました。
      
午後から炊き出し準備。野菜を切り始め、大きなおなべにアドボの材料、骨付き鶏肉、醤油、酢をいれた大鍋を煮込み始める。一通り準備ができたところで、ミリエンダ(おやつ)の準備をして、避難所の中までもっていきました。
そこは家をうしなった方々が生活をしている場。柔道場に段ボールで各家庭低いしきりをつくって、暮していました。

どんな顔していたらいいかな。おそるおそる、隅っこでお茶をくんでたら、楽しそうな、けらけら笑う声がきこえてきた。

日本語の達者なママたち。年配ご夫婦の敷地前、地べたにぺたんとすわってお話してる。持ち前のユーモアセンスで、目の前のおじいちゃんをわらわせている。

すごいっ。いいんだ、自分も、笑って、笑わせていいんだ。って思えた。

骨付き肉のアドボを、3回もおかわりしに来てくれた、小学生くらいの男の子がいた。

「ごはんはいらない。」って、あっというまに3回も。そのときの、がんばってお料理してくれたママ達の、嬉しそうな顔といったら。

避難所で、代表をされている方がご自身のブログに記録を始めた、映像をみせてくれた。その時、その場に居合わせた方々の話は、声が目眼差しが、表情が。何より説得力のある、ものだった。

そして最後に忘れられない、避難所でのエピソード。怒られました、わたしたち。

食事を一通り配り終わって、片付けも済んで、雨ざーざー、台風が接近して寒くなってきた屋外から、避難所の共用スペース的な部屋(高校の一教室)に一応代表の方の、許可をとって食事をさせてもらっていました。
同じテーブルに、あとから食事をしにきたお父さんが、ふと「君たちはボランテイアか」ときいてきました。はい、とわたし。

「自分たちは被災して、家を失い、ここしか居る場所がない。仕事から疲れて帰ってきても、どこへいったらいいんだ。」ふと話を始めました。

とっさに「あ、ここに居るな、ってことなんだな。」とわかったけれど、お父さんどんどん声が荒くなってきた。
「君たちはボランテイアだろう、ボランテイアなら寝床も食事もトイレだって、すべて自分たちは自分で賄って、避難所には何一つ影響を与えず、それでこそ100%ボランテイアと言えるんだ」

だんだん怒りだしてしまった。

確かに、雨で居場所が実際なかったのもあったけど、配慮が足りなかったと反省。

私たち以外に、避難所で暮らす人たちも、外部の団体も、いつもいろいろ来ているのだろう。本当に、気の休まる時間なんてないのだな。
お客さんがきてくれて嬉しい笑顔をみせる、一日避難所で暮らすおじいちゃんもいる。一方で仕事から疲れて帰ってきても、家ではない場所で心が休まらない人もいる。くーっと伸びをしたり、家族水入らず、になれる場所もない。

やっぱり被災した人の心が傷ついていることに、改めて気がついた。


いくら避難所の代表がOKしたからといって、いやだって人もいる。団体生活だから、仕方がない。でも、いやなものはいや。それが避難所で暮らす、一番の不自由なところなのだろうな。

 

やっぱり、わたしは行くまで、会うまで。わかってなかった。

「被災者」「被災地」一言でまとめられているけれど、傷はそれぞれ深さも種類も違って、求めている助けもちがうんだってことがわかった。

数や地域にまとめてしまうと、それ以上想像することをやめてしまうから、こわい。

ついさっき歩いた街。ほんとは瓦礫なんかじゃない。彼らの家だったってこと。ちゃんと理解できていなかったのだなあ。

 

.....


「話ができる」状態の人もいれば、できない人もいる。
でも、だれもが、言葉であろうがなかろうが、何らかのメッセージを発してくれていると思う。それは、当時の状況の話でなこともあれば、やり場のない「怒り」として現れることもある。言葉はなくて、目線だったり、背中だったりすることもある。子どもであれ大人であれ老人であれ、その聴こえたり聴こえなかったり、見えたり見えなかったりするけれど「声」を発信していると思う。
それは被災地だろうが、普通の生活をしていようが、みんな発していると思う。


お父さんにあんなこと言わせてしまった。反省。

南三陸町を旅立つ、1時間くらい前の出来事が、やっぱり辛い。ずっと悲しくて、忘れられない。東京から募金してた方が、よかったかもしれない。
出会わなかった方がよかったかもしれない、私自身も彼にとっても。

やっぱりわたしは、今日も無事元気に生きていられる意味を、傷ついた人たちの分まで、こっちで頑張るという原動力を、ただ情報を頭で理解するのではなくて。声を聴いてしっかり身に刻んで、一緒に、ごく普通に生活していきたい。

今回、やっぱり行ってよかったと思う。

 

とても楽じゃない。心穏やかにいられないことも多いけど、
やっぱり、これが、わたしなりの「ちゃんと」な生き方だと思う。
「声」を、一言でも多く、拾いたい。問わず語りを聞いていきたい。

 

南三陸町に到着する前の早朝。仙台市内、ハイウエイから田植えを終えたばかりの若い緑の稲たちが、そよそよしてる風景がみえた。
きっとこれが本来の、東北の初夏の風景。

ある街に起こったできごとと、あの人の痛みといっしょに

傷ついた町ときれいな町。両方覚えておこうと思う。 

 

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Comments: 2
  • #1

    小池アミイゴ (Monday, 20 June 2011 04:57)

    被災地からこちら側で暮らすボクたちも
    思うことをもっと口にして良いのだろうと思いました。

    もちろん、
    厳しい立場にある人へのイマジネーション持った上で、
    自分の「痛い」をコトバに出来るようであればなあ〜です。

    そんなことを考えるきっかけと確信を頂けた、
    南三陸で手にされた痛みの話であったと思います。

    ありがとう

  • #2

    仙波梨英子 (Monday, 20 June 2011 07:40)

    メッセージありがとうございます。
    大変失礼ながら、すみません、こちらのブログはココログに引越し中でして、うれしいうれしいメッセージは勝手に転記させていただきました。